粉屋の大阪to考想

大阪都構想否決を受けて、その辺をだらだらと書いてみます。大阪の政治状況も併せて書いていきたいですね。Twitter: KONAYA @PAN_KOYA

オバマ広島演説の雑感

 今回のオバマさんの広島演説について雑感を書いてみたいと思います。

  (太字:オバマ広島演説から)

 

 オバマさんの広島演説には二つの目的があったと考えています。一つ目は演説で今後の世界の戦争に対する概念を変えたいという理念を示したこと。そして演説と広島での献花、広島平和記念資料館への来館、被爆者との対話を通じて、アメリカという国が被爆者を知った。そしてアメリカという国が被爆者を語る言葉を持ったことだと思っています。

 演説でのオバマさんはアメリカ大統領の服を脱いで、1人の政治家バラク・オバマとして世界に語りかけていたと感じています。広島の演説で具体的なことがなかったという報道もありますが、当たり前です。そういうのを知りたければ、プラハ演説を聞けばいい。オバマさんの広島演説は抽象的な概念を語っています。それは今後の人類が核爆弾、そして戦争というものの概念をどう変えていくべきかという理念です。その理念を通して、世界が戦争に対する認識を変え、核の廃絶、そして戦争のない世界へ進もうという人類全体への呼びかけです。数百年先の未来に遠く、高く放った理想のボールです。その理想の透明度の高さから、私はオバマさんは一人の政治家として、核爆弾と戦争に対する今の想いを率直に語ったのが広島の演説だと捉えています。


現代の戦争が、こうした現実を教えてくれます。広島が、こうした現実を教えてくれます。
技術の進歩が、人間社会に同等の進歩をもたらさないのなら、私たち人間に破滅をもたらすこともあります。原子の分裂へとつながった科学的な変革には、道徳的な変革も求められます。
だからこそ、私たちはこの場所に来るのです。
私たちは、この街の中心に立ち、勇気を奮い起こして爆弾が投下された瞬間を想像します。
私たちは、目の当たりにしたものに混乱した子どもたちの恐怖に思いを馳せようとします。


 演説と広島での献花、広島平和記念資料館への来館、被爆者との対話を通じて、アメリカ大統領が「ヒバクシャ」に出会いました。今までアメリカという国は広島と長崎に対する核攻撃は語っても、それの被害については語りませんでした。それはアメリカという国が被爆者を認識すらせず、無いものとして扱ってきたという事です。アメリカとの関係はこの点でプラスでもマイナスでもなく、ただただゼロでした。しかし今回のオバマさんの広島への訪問で、アメリカという国は被爆者を知りました。またオバマさんの演説で、アメリカという国が被爆者を語る言葉を持ちました。この瞬間、アメリカという国は被爆者を認識したということです。しかしこれがアメリカと被爆者の「和解」にはなりません。許す許さないという話ではないんですよね。単純にアメリカと被爆者の関係が0から1になったということです。そしてそれが100になり、1000になったとしても和解はありません。それはオバマさんも演説の中で言っています。


世界はこの広島によって一変しました。しかし今日、広島の子供達は平和な日々を生きています。なんと貴重なことでしょうか。この生活は、守る価値があります。それを全ての子供達に広げていく必要があります。この未来こそ、私たちが選択する未来です。未来において広島と長崎は、核戦争の夜明けではなく、私たちの道義的な目覚めの地として知られることでしょう。


 「世界はこの広島によって一変し」たんです。だから和解は無い。しかし、これで関係が出来ました。0が1になるという事はそういう事です。そして関係を通じて目指すべきは、それは謝罪という安易なものではなく、未来を見据えたより良い選択を世界が誠実にすることです。政治が戦争責任をとるという事はそういう事だと思います。謝罪という名の犯人探しをしても仕方がありません。関係を続けることにより、より良い関係を構築し、そして融和する以外に戦争国間同士での平和な未来はありません。


アメリカという国の物語は、簡単な言葉で始まります。すべての人類は平等である。そして、生まれもった権利がある。生命の自由、幸福を希求する権利です。しかし、それを現実のものとするのはアメリカ国内であっても、アメリカ人であっても決して簡単ではありません。

しかしその物語は、真実であるということが非常に重要です。努力を怠ってはならない理想であり、すべての国に必要なものです。すべての人がやっていくべきことです。すべての人命は、かけがえのないものです。私たちは「一つの家族の一部である」という考え方です。これこそが、私たちが伝えていかなくてはならない物語です。 

 

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