粉屋の大阪to考想

大阪都構想否決を受けて、その辺をだらだらと書いてみます。大阪の政治状況も併せて書いていきたいですね。Twitter: KONAYA @PAN_KOYA

大阪会議が都構想の対案でなかった時代と対案になった理由 1/4<その8 大阪会議>

 今回は、大阪会議の前身である「大阪広域戦略協議会」(以下戦略協)についてお話をしたいと思います。この戦略協と大阪会議は、その構造に大きな違いはありませんので同じものと考えて差し支えはありません。お話をするうえで、以前と重複する部分がありますが、一から行きたいと思います。基本的な戦略協の流れはこちらをご覧ください。二窓で年表を見ながら読んで頂くとよくわかると思います。

 結論から書くと、この戦略協の条例は大阪府府議会に提出され否決。その後、大阪市市議会で提出され否決。堺市は提出されずに終わりました。最終的に大阪会議条例案が可決され、日の目を見ることになります。まずこの戦略協が議事録にどういった形で登場してきたかを追っていきます。

 

1.大阪広域戦略協議会の萌芽

 

 これを書いている2015年7月現在、大阪会議は都構想に対する大阪自民の対案というのが世間一般の認識になっています。マスコミ報道もそうですね。しかしこの認識は間違いです。正確にいうとある時期を境に大阪会議は都構想の対案になりました。それまではただの協議をする場としての提案にすぎませんでした。対案になった時期は明確で、2011年の4月以降です。この年の4月に第17回統一地方選挙がありました。この時、維新は選挙で躍進し、同時にそれを受けて大阪自民の執行部が交代になりました。この時に花谷議員が政調会長から自民大阪府議団の幹事長に就任しています。これに因果関係はないかもしれませんが、この2011年4月以降、戦略協(大阪会議)は明確に都構想の対案として位置づけられていきます。そしてはっきり、都構想の対案となった日が、2012年2月29日です。

 この戦略協がいつごろから大阪自民で協議をされ始めたかですが、2009年ごろというのは確認しています。(【 平成24年2月定例会総務常任委員会-03月21日-03号 】花谷議員発言から)この時期には花谷議員は府議政調会長でした(2008年5月就任大阪府大阪市堺市(以下3自治体)の3つの大阪自民議員団で協議してきたという発言もあり、政策を立案する政調会長という立場からも戦略協の政策立案に関わっていたでしょう。また、この時期は府議団のみで協議をしていたと思われます。後述の政策発表会にて、「戦略協の条例案を制作するための3議員団のワーキングチームを作る」という旨の発言が花谷議員からありました。後年の堺議会でも同様の発言が堺市議からあったため、ほぼ確実にそう考えて差し支えないと思います。よって大阪会議は自民府議団主導で作られたということになります。

 2010年(平成22年)12月5日に大阪会館で2011年4月の第17回統一地方選挙に向けて、大阪自民が大阪府連政策発表会を開催しました。府連の政策についての中で「大阪広域戦略協議会」が出てきます。またこの発表会で、政調会長として花谷議員が戦略協について説明しています。この発表会の八日後の12月13日の本会議で大阪自民の梅本議員から橋下知事に対して次の質問がありました。この時に大阪自民は戦略協の条例制定について、初めて議会で言及しました。

梅本議員「大阪自民は戦略協の条例制定に向けて取り組んでいく。広域行政の一元化を図るべく協議する場(戦略協)を設定する上での知事の所見をお伺いしたい」

橋下知事は「話し合う場を設定してもそれだけでは広域の一本化にはならない。大阪府大阪市堺市の間で広域行政の仕事、基礎自治の仕事をしっかり分けて、分けた上で、だれが決定権者か、責任者かというところまではっきりと決めれる条例ができるのであればいい。しかし、それは法律上、難しい。」

(【 平成22年 9月定例会本会議(2)-12月13日-16号 】より)

という発言をしています。この辺は大阪会議の協議結果の取り扱いが、首長の予算編成権を侵害してるのでは?といった指摘がそのまま当てはまる所ですね。

 次に翌年、2011年2月15日の本会議で当時の大阪自民府議団幹事長である吉田議員から橋下知事に次の質問がありました。

吉田議員「大阪の問題を考える上で戦略協のような場で合意形成をしながら物事を進めていくべき。都構想も戦略協でしっかり3自治体で協議ができる。戦略協を知事はどう思うか?」

橋下知事「政治の方向性を決めないまま、場だけを設定して話し合いをするというのは政治の無責任。まず、政治がこういう方向でやると決めて、その中で合意を図っていくというのが、政治と行政のプロセス。方向性が決まらない中でテーブルに着いたって、何の合意形成もできない。まずは方向性を決める、そこは政治の責任、そこから合意形成をやるというプロセスをたどらないと、何にも新しいものは生まれない」

 これに対して吉田議員は次の発言をしています。これはそのまま転載します。

(赤字・傍線PANKOYA)

◆(吉田利幸君) 我々は、別に合意形成はやっていけるもんと思ってるんですよ。だから、協議会でちゃんとしたテーマも設けますし。だから、ちょっと知事とは見解がその点については違うと思うんですが、自民党府議団としては、別に都構想に対して、一番初めにも言いましたように理念は同じ気持ちだということですから。
 決してこの戦略協議会は、都構想の対案ではありませんから、そのことだけは理解しといてもらわないといかんと思います。だから、一番肝になる部分というのは、広域行政の一元化ですわね、それから二重行政をやめるということですから、そこの部分については我々は一致してるわけですから。
(以下略)

【 平成23年 2月定例会本会議-02月25日-04号 】

 この2011年2月時点、4月の第17回統一地方選挙までの吉田幹事長の大阪府議団の見解は、都構想と広域部分の理念に関しては一致してたんですよね。広域の一元化、二重行政の解消。これについては理念を共有できてたわけです。あとここの「広域の一元化」は「府と市」の広域一元化を指しており、大阪自民府議団の見解ということを覚えておいてください。傍線部の「自民党府議団として」は、自民府議団は理念を共有するが、自民大阪市議団及び堺市議団は理念を共有しないんですよね。橋下知事もこの2月25日の本会議で「いや、もう政党の皆さんで合意をとってもらえれば、こんな大阪問題、もうずっと引きずることないと思うんですね。自民党さんの大阪府議会の皆さんと大阪市会の皆さんで見解をまず統一させてもらって、こういう方向でいくというところまで示していただくのが、やっぱり政党の話だと思うんです。」と仰ってます。要するに自民党の3議員団で見解・政策の統一さえできていれば、多くの大阪の問題は解決されていたんですよね。何せ大阪自民は与党でしたから。話がそれたので戻しますが、ここで重要な点は、「戦略協(大阪会議)は都構想の対案ではない」と幹事長が発言している点です。トップである幹事長の発言ですからこれは自民府議団の総意になります。ではこの時点での戦略協・大阪会議はどういった位置付けだったのかというと、まさに吉田幹事長の発言にあるように、大阪の問題を3自治体で協議する場(協議体)という認識でしかなかったんですね。これは当たり前の話で、戦略協、大阪会議と言い換えますが、大阪会議で話し合う内容・議題が都構想の対案になるのであって、大阪会議という場が対案にはならないんですよね。少なくとも大阪会議を対案というのなら、大阪会議+都構想の対案になる議案とセットでないと対案には成り得ません。この時点での大阪自民はまだ正気を保っていたということですね。

 では次に戦略協が「都構想の対案」になったのはいつかを見てみましょう。

 

大阪会議が都構想の対案でなかった時代と対案になった理由 2/4<その9 大阪会議>